
筑豊地域
なんとびっくり「爆発踏切」ってなに??
福岡県添田町のご紹介

豊かな自然と歴史、文化の薫る添田町
福岡県の東南端、大分県との県境に位置する添田町は明治44年4月1日に町制を施行し、来年で110周年を迎えます。日本三大修験道の霊場として、古より多くの人々の信仰を集める北部九州最高峰の霊峰「英彦山」をはじめ、国内で初めて指定された耶馬日田英彦山国定公園などの雄大な自然と歴史、文化が今日もまで受け継がれ、英彦山の麓に広がる土地と清流の恵みを受けた農業や林業が営まれています。
インパクト大のネーミング「爆発踏切」
「爆発踏切」を知っていますか?添田町にある踏切の正式名称なのです。彦山駅から約1キロ程南に進んだ場所、日田彦山線沿いに遮断機や警報機の無い小さな踏切があります。添田-夜明の間にある一風変わった名前のこちらの踏切ですが、その名前の由来に迫ろうと思います。
戦争の大きな爪痕、山が吹き飛んだ大事故
終戦からわずか3か月後の1945年11月12日に彦山駅から南方500メートルにあった二又トンネルにて、戦時中に大日本帝国陸軍が保管していた火薬をアメリカ軍が焼却処理しようと、火薬を収納していたトンネル内で火をつけました。火をつけた当初は燃焼し、淡々と処理が行われていたと思われていましたが、天下から約2時間後、住民が「新聞を燃やす程度」と聞かされていた炎は火炎放射器のようになってトンネルから噴出し、トンネル口から100メートル以上も離れた川の対岸にあった民家にまで延焼。消火活動に住民総出で当たるも、炎の勢いはおさまるどころか激しさを増し、火薬が大爆発を起こして釈迦岳の円山が真っ二つに割れ民家を吹き飛ばし、大量の土石などが人々の頭上に落下してきました。爆発の音は、福岡市内からも聞こえたと言われています。147人が死亡し、149人が負傷したこの悲劇を風化させないためにネーミングされたのが「爆発踏切」とのことです。
現在の様子
この爆発踏切から彦山駅の方向を見てみると、途中に山の切通しがあり、そこを線路が通っています。現在は緑に覆われ、初めからそうであったかのような風貌ですが、当時の山が二つに割れ、数百メートル離れた場所の家屋さえも倒壊している悲惨な様子は彦山駅の横にある休憩所に展示されている写真から伺うことができます。
戦後処理の最大級の被害
川沿いの小道からアーチ橋をみながら足を進めると、爆発点近くの昭光寺というお寺に事故の慰霊碑が立っています。この爆発の被害者や遺族たちには、十分とは言えない保証しかされず、戦後の状況もあり涙を飲んで受け入れるしかなかったと言います。アメリカ軍のずさんな指揮や報道管制・補償の遅れといった教訓を残した戦後の事故ですが、「爆発踏切」の名前は人々の悲痛の叫びだったのかもしれません。
爆発踏切これからどうなる
2017年におきた九州北部豪雨の被災の影響で、こちらの区画は現在不通となっています。
こちらの区画を含む不通区間は、バス高速輸送システム(BRT)に転換して復旧を目指し、2023年中に完成するとのこと。BRTが開通しても悲惨な事故を風化させないよう語り継いでいかなければいけません。
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