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福岡県苅田町のご紹介

松山城跡のご案内

かつて、ここの山頂には、「豊前国第一の要害山城」とも呼ばれた松山城がありました。現在は遺構を残すのみですが、標高128mの山頂に立てば、眼下には360度のパノラマが広がり、苅田市街地・曽根地区・北九州空港を見渡すことができます。天気が良い日には、山陽小野田市(山口県)や国東(くにさき)半島(大分県)も見えます。
※平成30年7月豪雨により、立入禁止となっています。

【松山城の歴史】

松山城は740(天平12)年に藤原広嗣によって築かれた山城だと言われています。城主が度々替わった後、戦国時代には豊後国の大友氏と周防国の大内氏や毛利氏との間で城を巡る激しい攻防戦が繰り広げられました。1586(天正14)年には、黒田官兵衛が秀吉の九州攻めの先鋒・毛利勢の軍監として陣を敷きました。平定後は、黒田12万石の北端を守る支城となりました。 城跡から出土した軒平瓦には秀吉ゆかりの「桐葉紋」が描かれており、黒田官兵衛との深い関連を物語っています。
その後、関ヶ原の戦いの後1600(慶長5)年には細川氏の属城となりましたが、1606(慶長11)年に廃城となったと伝えられています。

【松山城跡の特徴】

1988〜1990(昭和63〜平成2)年に苅田町教育委員会が行った調査により、往年の松山城は次のような特徴を持っていたことがわかりました。
●山頂に主郭が、その東に2の郭・3の郭・虎口が、最東部に小城と呼ばれる郭がそれぞれ築かれていた。
●周囲の斜面には横堀・堅堀・土塁などが配置されていた。
●中世の山城としては珍しく、主郭に屋根瓦を葺いた建物が設けられていた。

青龍窟・広谷湿原とその周辺

【青龍窟】

1962年に国の天然記念物に指定された、全長約1,785m以上、平尾台最大規模の鍾乳洞です。
1976年には、ナウマンゾウの頭蓋骨化石が出土しました。

普智山等覚寺の奥の院として修験道の修行場になっていた歴史があります。
また、洞窟内に住んでいた土蜘蛛を景行天皇が退治したという伝説や、豊玉姫の伝説が伝わっています。
洞口ホールには、豊玉姫を祀る祭壇が残っています。

【所在地】 苅田町大字山口

【広谷湿原】

北九州国定公園の中、青龍窟の西側にある、福岡県唯一の湿原です。「鬼の唐手岩」という水に溶けにくい花崗岩質の硬い岩がダムのように地下水をせき止めているため、湿原ができました。カルスト台地にある湿原は世界でも珍しく、絶滅危惧種であるトキソウやノハナショウブなどの貴重な植物が自生しています。町の天然記念物に指定されています。
※湿原への立入りと野生植物の採取は絶対におやめ下さい。双眼鏡などをお持ちになって、遊歩道の上から観察をお楽しみ下さい。

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